福岡子どもホスピスプロジェクト

福岡子どもホスピスプロジェクト

思いを伝えよう

このコーナーでは、福岡子どもホスピスプロジェクトと交流のあるお子さんとご家族や医療関係者等、サポーターからの子どもと家族、生活、いのちにまつわるコラムをご紹介していきます。

「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ♪」

息子は雪の降る寒い朝方に元気にこの世に生まれてきてくれました。何があってもこの子を守っていこうと思ったのを今でも鮮明に覚えています。

少し首の据わりが遅いということで大学病院を受診し、ポンペ病との診断を受けました。生後半年のことでした。突如訪れたこの診断はまさに晴天の霹靂でした。少し発達の遅い程度で成長していく息子の病気を、私たち夫婦はどこか他人事のように感じ、このまま元気に育っていくものと希望すら持っていました。

けれどちょうど1歳を過ぎた頃風邪をひかせてしまい、その日以来息子は寝たきりとなり、24時間人工呼吸器を装着しなければならなくなりました。歩行器に乗り遊んでいた息子はたった半日で手も足も動かなくなり、挿管しているために声も十分に出せない状態になってしまったのです。この時の出来事は、今も記憶の奥底に封印し思い出さないようにしています。

日々成長していく息子を前に、落ち込む時間はないし今後の生活を考えないといけないと自分を奮い立たせ、この子を産んだ時の誓いを全うしようと日々過ごしていました。けれど、ふとした瞬間に襲ってくる自責の念、考えても答えの出ない「自問自答」に疲れ果てることもしばしばあり、日々の生活と自分の中の葛藤に疲れ果てていました。息子の祖父母もまた息子を思い、そんな息子を抱えた親の私たちを思い、自分たちを責めていたようです。

今年、年明け息子は5歳を無事に迎えることが出来ました。微々たるものではありますが、息子にも成長がみられ「去年はこうだったのにね」なんていう喜びを周囲の人と一緒に感じられるようになりました。24時間世話が必要になったばかりの頃は、自由に外出もできない生活が苦しく思えたりしたものです。社会からは取り残され、かといって社会参加できる機会もなく、自宅に長くいる時間があればあるほど孤独との戦いが付きものでした。

けれど、今となっては障がいと共に生きる息子の傍で生活することが当たり前となり、息子の体も成長してくれたおかげで、去年までなかなか難しかった外出もできるようになり、生活の場が広がってきました。生活の場が広がることで他のご家族とも知り合いになれ話をする機会が増えると、障害は違えど親の子に対する気持ちは同じだということを知ることが出来ました。こういった繋がりのなんと心強いことでしょう。同じような経験を積んでいる方の話を聞くだけで自分への励みになっています。

この5年間は息子のおかげで色々な経験をさせてもらいました。多くを学び、多くを考えさせられ、貴重な経験となりました。病気が分かった当初は考えもしなかった境地にいるように思います。 中島みゆきさんの歌のように『あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ♪』そんな心境の今、楽しいことばかりでもなく、苦しく悔しく歯がゆい思いをする日もまだまだあるけれど…きっといつかは笑い飛ばしている自分がいると思って、日々を息子と一緒に過ごしていけたらと思います。

子どもの日のイベントに秘められた物語

今年で3回目になる子どもの日のイベント「わくわく子どもまつり」。沢山の方が参加して下さいましたが、賑やかなイベントの中に、それぞれの物語がありました。

・出かける直前、栄養チューブから食事を注入後、お子さんが嘔吐して、1時間遅れての参加となったご家族。でも大丈夫、大道芸には間に合い、縁日コーナーも楽しめました。アカペラサークルのボーカルさん、ノリノリで踊って歌って、可笑し過ぎます。ママの笑いのツボにハマりました!

・あるお母さんは、来る直前まで体調が悪く、参加するかどうか迷っていたと。確かに顔色は冴えず、お子さんを楽しませたくて、頑張って、お父さんと来られたようです・・でも、帰る頃には、表情も明るくなり、「楽しかった。次回も期待しています!」と。

・病院に入院している子どもの状態は良くないけれど、普段どこにも連れていってあげられないきょうだいだけでも参加させてあげたいと、付き添いをパパに代わってもらって参加してくれたママときょうだい達。お兄ちゃんと妹は、普段はお家にいないママを独占できて嬉しそう!お土産をもらって嬉しそうにママと手を繋いで帰っていきました。

・1歳前のお孫さんが病院に入院中で、孫や子どもの将来を案じて、見学にいらして下さった祖父母。「先日孫が気管切開をしたんです。皆さんどうやって(育てて)いるのかと思って、でも人工呼吸器つけても楽しめるんですね。私達、祖父母の方がメソメソしていたらダメですね・・・」

・生まれてからずっと病院で、外出許可を得て、きょうだいとともに参加されたお子さんのお母様は、病院から、施設か在宅かの選択を迫られ、悩める胸中を語って下さいました。小学生の妹さんは同胞と暮らしたことがありません。「ご家族4人で暮らせるのは、もしかしたら今が最後のチャンスかもしれません。訪問看護や訪問診療、ショートステイを利用すれば、今ならまだお家で皆で暮らせるんじゃないかな・・・」最終的にはご家族の決断であり、どちらが良いとかいう事ではありません。ただ、妹さんにとってもそのお子さんにとっても、家族4人で過ごせた思い出ができるといいなあと、ついつい話し込んでいました。

・昨夏に一人っ子を亡くされたお母様は、HPから自らボランティアを志願し、参加下さいました。そのことを知合いの一昨年に亡くされた天使ママに伝えると、私が支えてあげなきゃと思ったと駆けつけてくれ、「でも、私の方が逆に励まされました」と、会場の片隅で語りあう天使ママの姿もありました。そのお母様はイベント終了後も遅くまで、片付けや振りかえりにもお付き合い下さり、「ここにも来れない子ども達がいる、子どもホスピスができたら、どんなに救われる子どもがいるかと思う」と伝えて下さいました。

・3年前、フリースクールの教師をしている院生が連れてきた仮面のように無表情だった少女は、この日のために、京都の大学から帰福し、ボランティアとして参加してくれました。3年前には考えられないような笑顔を見せて・・、そしてまた京都に帰っていきました。彼女は、きっとハンディを抱えながらも、「今、このとき」を生きて楽しむ子どもと家族から、大切な"なにか"を教えてもらったんだと思います。

そして、子どもや家族のひと時の笑顔が見たくて、労力を惜しまず企画や準備を進めてくれた院生や学生、ボランティアの皆さん、彼らもまたそれぞれの思いを胸に参加していました。さらに今年は、福岡の老舗銘菓「石村萬盛堂」さんから、沢山のお菓子の提供を頂きました。お土産用の鶴の子(端午の節句特別バージョン)やチョコマシュマロ、カフェコーナーのスイーツと、体と気持ちを解してくれるのに美味しいお菓子は欠かせません。石村僐悟社長に感謝です!

このイベントに集った人それぞれが、「子どものホスピス」に必要な構成メンバーです。病気や障がいのある子どもと家族だけではなく、そのお子さんやご家族の生活に思いを寄せ、何かできないかと集まってくれた人々。子どもの笑顔を想像しながら、色々な人を繋いで、集いの場を創り、さらに、場をともにする中で、友人や親戚のように思えてくる。ケアするとか、ケアされるとか、そういう一方向の関係を超えたところに、「子どもホスピス」はあります。その理念は「友として、もてなす」ことです。このような活動がいつの日か、子どものホスピスの設立として結実し、発展することを祈りながら、子どもやご家族との再会を願って、歩んでいきたいと思います。

いつまでも一緒に'13師走 きょうごく しんじ

「…多くの皆様のおかげで(息子と)十分な時間を過ごせました。」お葬式の最後にお父さんがしみじみと挨拶をされました。

Sくんは1歳5ヶ月の時、浴室でおぼれて救急搬送、一命は取り留めたものの、低酸素症脳症で経鼻栄養、気管切開、人工呼吸器が必要となりました。健康であった子に突然の出来事、ご両親の気持ちは察するに余りあります。1年余りの入院を経て、家へ連れて帰る決心をしたお母さんは、ほとんど一人で24時間365日、献身的なケアをされました。

まだ小児在宅医療の経験が浅かった私は、在宅での人工呼吸器の調整や栄養管理など、様々なことをお母さんと相談しながら行いました。ある日人工呼吸器を持って阿蘇へ出かけたいと言われ、緊急時に最寄りの医療機関に見せる情報提供書(「どこでも紹介状」と呼んでいる)を渡しました。それ以来、突然「今は能古島にいます」とメールがあったり、サーカスを見に行ったり、ご家族で沢山の楽しい時間を過ごされました。Sくんは2歳から9歳まで両親、お姉ちゃんの愛情に包まれてお家で暮らしました。

睡眠も満足にとれない中、私たちにはいつも笑顔で接してくれるお母さんの姿をみて、少しでも休んで頂くにはどうしたらいいだろうかと思うようになり、ようやく2年前、診療所にレスパイトケア*をする場所ができました。開設前にSくんも見学に来てくれましたが、それが最後でした。でもお母さん、お姉ちゃんと一緒にS君の手で描いた「△さんかく」の文字は今もパンフレットの中で輝いています。

*医療ケアの必要なお子さんをお預かりして、家族にひと時でも休息してもらうためのケア

いつまでも一緒に'13神無月 かみぞのすみえ

娘は2000年うまれ。病名はミトコンドリア病リー脳症。

出生時は緊急帝王切開、生後9日目で新生児けいれん、なんとなく発達が遅いなぁと感じていた。6ヶ月目で両眼眼振がでて検査、脳に異常があるらしいとわかった。8ヶ月目に意識障害、入院検査、病名が判明した。『進行性の病気である、寿命は患者さんによる』と説明をうけた。その後、痙攣発作が増え、薬も増え、食事が取れなくなり、鼻チューブから胃ろうへ。5歳、眠ると呼吸が控えめになり酸素療法。気管切開の話が出て、いずれは人工呼吸器も視野に入れておいて、という話もあった。まだまだ先のことだと、想像もできなかった。

しかしその日はやってきた。9歳、風邪をひいて1週間ほど吸引が多かった。朝起きたら心肺停止していた。救急車。処置室から救命医が出てきた。『ひととおり処置をして、小さい脈が出てきた。強心剤をMAX使っているが、あと1回なら使える。このまま処置をやめて見送ることもできる。どうしますか?』夫婦並んでいたが、先生は私を見た。私は一瞬ためらった。『3分以内に答えを出して』と先生は処置室に戻った。夫と顔を見合わせ、うなずき、処置室の扉をあけ『薬を使って』とお願いした。

処置室では先生が汗だくで心臓マッサージをしていた。たくさんのチューブ、薬剤、機械。スタッフも多かった。助かった。何日後に意識を取り戻したのか思い出せない。気管切開、人工呼吸器、導尿、傾眠多しだが、元気に暮らしている。12歳、修学旅行にも行けた。

あの時なぜすぐに助けて、と言えなかったのか。「自然に心肺停止したのに、救命延命していいのか?親としては、どんな姿でも生きていてほしいが、それは子どもにとって辛い日々の始まりではないのか?」という思いがかけめぐったからだ。(ちなみに夫は「使える薬は全部使えばいいのに、なぜ訊くのだろう?」と思っていたそうだ。)

正直、今でもふと「これでよかったのか」とよぎる時もある。そして「また同じような事が起こったらどうすればいいのか」と考える。安らかに見送るつもりでも、いざとなれば「何でもいいから助けて!」と叫ぶかもしれない。落ち着いているかもしれない。答えは出ない。その時にならないとわからないのだ。だから今は生きる、日々を大切に過ごす。親子3人の生活がずっと続きますように。

今月は、10年前に出会った佑太君のママがコラムを寄せて下さいました。佑太君との出会いは、小児病棟でした。看護学生が佑太君を受け持ち、学生の指導教員だった私(濵田)も、いたずら好きで優しい佑太君とすぐに仲良くなりました。ある日佑太君とおしゃべりをしながら、私が家で子ども達に「鬼ばば」と呼ばれたと話すと、佑太君はそれを大変おもしろがり、それ依頼、佑太君は私のことを「鬼ばば」と呼ぶようになりました。

しかし佑太君の病気は進行し、お母様は「治らないのなら少しでも家族と一緒に家で過ごさせてあげたい」とご自宅に連れて帰り、看病をしながら、ご家族との時間を大切にされました。その後お母様が、佑太君が亡くなる前の忘れられない感覚を語って下さったことがあります。「お正月を挟んだ数日間、佑太が眠っていたリビングだけは空気が違っていて、今までに感じたことのないとても暖かい穏やかな空気が流れていた」と。そして手記には「もしかしたら、その時の空気の流れは、天国への扉が開き、天国からの光と空気が流れていたのではないかと思う。今、あの子があの穏やかな暖かい空気の中にいるのであれば心配しなくてもよいのではないかと思っています」とありました。今も時々天国から佑太君が「鬼ばば、がんばれよ!」と言ってくれているのが聞こえてきます。佑ちゃん、下界でがんばっているママや弟君達、鬼ばばをいつまでも見守っていてね!

「チクタクワニ」の不思議な縁'13長月 とみうらたみこ

今回('13.11/29~12/1)、福岡で行われる「小児血液がん学会」のポスターの片隅に掲載されている「チクタクワニ」。10年前に亡くなった佑太が描いたピーターパンに出てくるチクタクワニ。 亡くなって数年後 がんの子どもを守る会の絵画展に出展させて頂いてからのご縁で、この様な場所で佑太の絵を皆様に見て頂く機会を頂けた事を、とても嬉しく思っています。

佑太は、5歳の時に脳幹部グリオーマ(脳腫瘍)と診断され2年と2ヶ月の闘病後、自宅で家族に見守られながら天国へ旅立ちました。その時から もつと身近にグリーフケア(亡くなったあとの遺族の悲嘆のケア)や子どもの在宅医療、在宅での看取りがあってくれたらと思ってきました。

佑太が、病室で「鬼ばばー」と呼んでいた濵田先生が一歩一歩 このような処を作ってくださってる事に不思議な縁を感じると共に感謝の想いで一杯になります。

「お母さん、もう泣かないで」梅村美恵

私の孫は生後三ヶ月の時、呼吸停止のため救急車で病院に運ばれました。しばらくICUに入院となり、首から下の筋肉が萎縮していく「脊髄性筋萎縮症」と診断されました。そのため、気管切開しなくてはあと半年から一年 と言われ、娘夫婦も迷いも有った様ですが折角命を授かったのだから一日でも長く一緒に過ごし家庭的な雰囲気を与えてやりたいと思い手術をしました。私は、孫の事を思うと涙したり泣いたりし、何で私の孫がと自分自身に問い掛け、何か悪いことをしたのかと自分を責める事も有りました。そんな私の姿を見て娘が私に「お母さんもう泣かないで。私がちゃんと受け止めて頑張って育てるから」と言ってくれました。その言葉を聞いてはっとしました。娘夫婦は泣いている暇など無く二十四時間、交代で吸引や体位交換をして孫の命を一日一日と繋いでいるのだと思い、私は見守ることしか出来ません。娘たち夫婦が病気をしないで頑張って欲しいと願っています。

孫は、娘夫婦の看護の甲斐あって十月三十一日で六歳を迎え、来年は小学校へ入学です。今では眼で意思疎通が上手に出来るようになり、痛い、美味しい、楽しい、気持ちがいい等尋ねると、目を瞬きして答えてくれます。又、変った表現をすることも有ります。夜間便が出て気持ちが悪いときは、眼に涙をいっぱいためてポロポロと涙を流して訴えたり、娘が疲れてついうたた寝していると、起こしたら悪いと思ってるのかじーっと大きな眼で見つめて見守ってくれているそうです。

最近は小学校の入学のためにパソコンでひらがなの勉強をしていますが、声を出して覚えることが出来ないので時間がかかるようです。一生懸命頑張っている姿を見るにつけ、心の中でエールを送っています。来年は小学校、次は中学校、高校。ちょっと欲張りでしょうか。この願いが叶いますように。 

今月は、人工呼吸器をつけてお家で暮らしながら、色々なことにチャレンジしている、くるみちゃん(5歳の女の子)ご家族からのコラムをご紹介します。 くるみちゃんは病気のため生後5日目に手術を受け、2歳1カ月まで病院のNICU(新生児集中治療室)に入院していました。退院してからも、時々体調を壊して入院することもありますが、食べることが大好きなクルミちゃんはご家族と一緒に色々な体験にチャレンジしています。英語で障がいのある人のことをChallenged peopleとも呼びますが、くるみちゃんご家族はまさにChallenged familyです。このコラムは「くるみが吐いて眠れぬ夜を過ごしているので」とお母様が書いて下さったものです。

くるみは病気で生まれました。小さく生まれたと報告した時に、友達からこんなメールが届きました。

『赤ちゃんって、大人より5倍の努力をするそうです。 赤ちゃんが寝返りをしたりハイハイや掴まり立ちしたりする努力は、大人がエベレストに登るくらいの勇気と体力、努力をしているそうです。それは"生きる"という気持ちしかなく、恐い、逃げたい、辞めたい、死にたいというネガティブな思考がないからだそうです。 そして更に、病気と戦う子供は普通の子供より心が強くて、まわりをよく見ていると言っていました。 赤ちゃんは、生きているだけでも母親が笑うから嬉しくて生きる事を頑張るって言っていました。』

障害を持っている子と暮らしていると、自然と諦める事に慣れていきます。『しょうがない。』と、自分を誤魔化し、慰めて・・・。そんな自分に嫌気がさして、強くなりたいと願う時に、いつもこのメールを読み返して、心をリセットしています。

最近、くるみに笑いかけると、ニッコリと笑い返してくれる事があります。この笑顔だけで、心がどんどん強くなり、弱音なんか吐いていられなくなります。 呼吸器をつけていて、座ったり歩いたり喋ったりする事はできないけど、それでも、『色んな事が出来るんだよ!』って胸を張って言えるように、簡単に諦めないで、たくさんの事に挑戦してみたいと思っています。

今年は、飛行機に乗って東京旅行もしました。ZeppFukuokaにGLAYのライブも観に行きました。
ヤフオクドームに野球観戦にも行きました。あとは新幹線に乗る事が目標です。 秋くらいにUSJに行きたいな、と秘かに企んでいます(笑)

先日、2月にNICU(新生児集中治療室)で1歳5カ月で亡くなった、瑠ちゃんのお家にお参りに行きました。生まれてから一度もお家に帰ることのできなかった瑠ちゃんだったけど、明るいお家のリビングの一角に、やんちゃなお兄ちゃん達と一緒に過ごせる瑠ちゃんの居場所が確かにありました。お母様は、瑠ちゃんのためのお見舞いも在宅に帰る準備も、何もしてあげることができなくなり、ぽっかりと穴があいたような、悲しみの中にありました。大きな瞳で今にもおしゃべりしそうな瑠ちゃんの遺影には、ほっぺの中央に栄養チューブとそれを固定するテープと人工呼吸器が写っていました。お母さまは、この写真のことを次のように話して下さいました。「お葬儀屋さんが気を遣って、栄養チューブを取り除きましょうかと言われたけど、このチューブは瑠ちゃんが生きた証、ありのままの瑠ちゃんでいいと思って、加工してもらわなかった」と。

また、お兄ちゃん達が無邪気にはしゃぐ賑やかなリビングで、9歳の従姉から瑠ちゃん宛に書かれたお手紙も見せて頂きました。お通夜の日、瑠ちゃんの棺にそっと入れられたその手紙には、瑠ちゃんが生まれたことの喜びと写真を通して感じた瑠ちゃんとお母さんの微笑ましい様子を捉えた内容が綴られ、お母様はその手紙に感動して、棺から取り出し自分にもらえるようにお願いしたそうです。そしてその手紙の最後には、「りゅうちゃんのいのちを背負って私は学校に行きます」と添えられていました。

子どもにとっても、お友だちやきょうだいなど子どもの死は大変辛いものですが、"大好きりゅうちゃん"と書かれた手紙には、9歳の女の子の瑞々しい感性と、子どもながらにも懸命に従弟の死に向き合う姿が見てとれ、お母様とともに涙が溢れてきました。1年半の短い生涯だったけど、瑠ちゃんのことを忘れない、思ってくれる人がいるということ、そのバトンを引き継いで生きてくれるという意思は、ご家族にとっての心の支えとなります。"人は悲しみの数が多いだけ、人に優しくなれる"と言いますが、きっとこの女の子も瑠ちゃんの"いのち"を引き継いで、やさしい女の子に成長していくことでしょう。私も瑠ちゃんやお母さま、ごきょうだい、女の子から教えて頂いたことを忘れないでいたいと思います。